2015年の設立以来、私たち1moreBaby応援団が目標に掲げているのは、「理想の人数だけ子どもを産める社会」の実現です。その目標を達成するために、我々は「二人目の壁」を取り上げ、同課題を解消するための調査・情報発信を行ってきました。そうした中、本ブログで2019年6月に書いた記事「二人目不妊〜不妊で悩んだことがある人1000名に聞いてわかった現実〜」にもあるように、「二人目不妊」という新たな課題も浮かび上がってきました。
不妊治療は、各家族・各個人によって事情がまったく異なり、その治療の結果を左右する要因についても完全なる解明はできません。ですから、記事として取り上げるのは非常に難しいテーマだといえます。
しかし、不妊治療に関連する情報や体験記を求める声は少なくありません。その要因の一つは、不妊治療をする人が増加していることでしょう。たとえば体外受精に関して言えば10年ほど前は生まれてくる赤ちゃんの50人に1人程度の割合でしたが、現在では17人に1人の割合だと言われるほどです。
そうした中、まだまだクローズアップされるケースが少ないのが「二人目不妊」であり、二人目に関する不妊治療です。そこで今回、私たちは「NPO法人umi」の協力を得て、これまで語られることがほとんどなかった「二人目不妊」について、実際にご経験された方へのインタビューを行うことにしました。
※本インタビュー記事は、「二人目不妊」で悩んだ人の気持ちや夫婦の関係性を紹介するものです。記事内には不妊治療の内容も出てきますが、インタビュー対象者の気持ちや状況をより詳しく表すためであり、その方法を推奨したり、是非を問うものではありません。不妊治療の内容についてお知りになりたい方は、専門医にご相談ください。
最初にご紹介するのは、自宅サロンを営む池内芳子さん(仮名)です。
現在36歳になる芳子さんと、運輸業に携わる同い年の慶治朗さん(仮名)の間には、9歳と7歳になる二人のお子様がいます。「二人とも体外受精で産みました」と話す芳子さん。そこにはどんな葛藤や苦労があったのでしょうか。結婚に至る経緯から不妊治療に至るまで、じっくりとお話を聞きしました。
転職先の職場で出会い、1年の交際期間を経て結婚
高校を出た後、実家から通えるところにあるレジャー施設でアルバイトをしていたという芳子さん。数年働きましたが、体力的に厳しい仕事だったこともあり、転職を考えました。「ちょうど安定していそうな企業が契約社員を募集していた」ということで、応募してみたところ、採用されたのだといいます。
「その会社は利用していた路線の終着駅にあったので、あまり深く考えずに通えるだろうと思っていた」と当時を振り返り笑って話す芳子さん。それもそのはず、実際にはかなり遠く、2時間以上も電車に揺られないとたどり着かない場所でした。
実家から離れることを余儀なくされた芳子さんでしたが、「それがかえって結婚に近づけたのかもしれません」と話す通り、転職先で数年後に結婚する慶治朗さんと出会いました。
1年ほどの交際期間を経て、芳子さんは職場で出会った慶治朗さんと結婚に至りました。その間、芳子さんは社内試験に合格し、正社員になっていたそうですが、勤務体系的に家族の時間を取るのが難しいため、仕事を辞める選択を取ったそうです。
「結婚を機に、その仕事は辞めました。理由は結婚生活を優先させることに加えて、勤務体系が体に合っていなかったこと。仕事をすること自体が嫌だったわけではありません」と話す芳子さんは、その言葉通り、元職場の上司から紹介されたパートの事務職に就きました。
勤務体系が体に合っていなかったというのは、具体的には定期的に夜勤があること、そして立ち仕事であることが大きかったそうです。
「もともと私には生理不順や不正出血があって、高校生のときから婦人科に掛かっていました。具体的にいうと、生理が来すぎるという傾向があって、実家の近くの婦人科で薬を処方してもらっていました。夜勤などの影響で、その症状が悪化していたんです」
芳子さんは、生理不順があるため、慶治朗さんに対して「もしかしたら子どもができづらいかもしれない」という話を結婚する前からしていたと言います。それに対する慶治朗さんの回答は、「命にかかわるような病気でないならば特に気にしない」というものでした。
「20代だし、なんとかなるだろう」と軽く考えていた
「ポジティブな人なので『なんとかなるでしょう』くらいに軽く考えていたのだと思います。私もその答えを聞いて、『まあ、なんとかなるよね。まだ夫婦ともに20代だし』と考えていました」と芳子さんは言います。
その言葉通り、池内さん夫婦は、入籍後すぐに妊活に取り組みました。具体的には、生理不順や不正出血を抑制する薬を飲んでいたため、産婦人科にかかることにしたのです。しかし、そこで驚くような出来事があったといいます。
「高校時代から通っていた病院は遠いこともあって、今住んでいるところの近くにある産婦人科医院に行きました。そうしたらそこの先生が、ちょっと問診しただけで、『このままでよく子どもができると思うよね。あなた絶対に子どもはできないよ』みたいなことを目も合わさずに言ってきたんです」
大きなショックを受けた芳子さんは、新規の病院をかかることに抵抗感を持つようになり、高校時代からの馴染みの病院を選ぶことにしました。信頼の置けるいつもの先生を前に、「こんなことを言われた」と涙ながらに相談すると、「そんなバカな話はない。これで子どもができないなら、世の女性の8割が不妊になるよ」と言ってくれたそうです。そして芳子さんは移動に3時間以上かかる実家近くの病院に通うことを選びました。
その産婦人科医院では、元々処方していた薬を変えたうえで、妊娠しやすい時期についてのアドバイスを受けながら自然妊娠を試みた芳子さん。しかし数ヶ月を経ても妊娠の兆候が見られず、もともと生理不順もあったことから、早い段階からタイミング療法を行い、詳しい体の検査を受けたうえで、ホルモン療法も受けました。
「ホルモン療法を行っても卵胞がうまく育たないということでした。それで、『専門の病院で見てもらったほうがいい。それもできれば人工授精でも難しいから、体外受精を扱っているような病院が良いと思う』という助言を受けました」
芳子さん自身、「新しい病院に変えないといけないのか……」と抵抗はあったものの、信頼している先生からの助言であったこと、はっきりと「早く対処したほうがいい」と言われたことから一念発起。同じ都道府県内にある別の高度な治療ができる病院に通うことにしました。
そこでは、まず一通りの検査を実施。すると、やはり排卵の障害だろうという結論に至り、「人工授精では難しいと思われる。最初から体外受精でもいいかもしれない」ということを言われたそうです。と同時に、先生からは夫婦ふたりの意識を大きく変える言葉も飛び出しました。
「『妊娠できない可能性もある。そのときにどうするのか、あらかじめ夫婦で話しておくことも大事です』と言われたんです。どういうことですかと聞くと、きっぱりと『養子縁組です』と。そのとき初めて事の重大性を感じたのかもしれません。それまでは夫婦ともに20代だったこともあって、『何とかなるだろう』という思いが常に頭のどこかにあった気がします」
人工授精を経ずに体外受精を行った「1人目の不妊治療」について
その日の夜、「初めて夫婦でじっくりと腰を据えて話し合った」と芳子さんは言います。
「あーでもないこーでもないと、行ったり来たりの話し合いをして、最終的には、『今できることを全力でしよう』ということになりました」
それまでも慶治朗さんは非協力的というわけではありませんでした。が、その話の後にはより協力的になってくれたと言います。車で2時間近くかかる移動も、できる限り付き添い、変えた病院の先生に推奨された精液検査も、すぐに行いました。その結果、特に問題がないということがわかりました。
そこで芳子さんは人工授精を飛ばし、主治医の先生が推奨する通り、最初から体外受精を行っていこうと決断しました。体外受精の経過について、芳子さんは次のように話します。
「採卵については2回行いました。1回目の採卵では、刺激が強すぎたのか卵胞が30個とできすぎて卵巣が痛くなり、『このままでは腹水が溜まってしまう』との医師の判断で、採卵を諦め、リセットさせました。そのときは、くしゃみをするだけ、少しの段差を降りるだけで痛くて、非常に辛かったのを覚えています」
薬の量を調整して行った2回目の採卵では12個が取れました。不妊治療は人と比べるようなものではありませんが、1年数ヶ月の間に10回以上採卵をしたような人もいる中で、比較的順調なほうだといえます。さらに、その12個の卵子にふりかけ法を実施した結果、4個が受精し、その中で2個が胚盤胞にまで育ちました。
「その段階でだいぶ卵巣が腫れていたということだったので、そのまま戻すことはできず、一度2個とも凍結しました。採卵周期の後の月経周期で、そのうち1個を融解して移植し、着床しました。その1回で妊娠し、無事に1人目を出産することができました」
もう一方の凍結胚は、1年間で2〜3万円がかかるということでしたが、慶治朗さんと相談のうえ、「せっかくあるんだったら取っておこう」という結論に至りました。そのときの夫婦の心境については、次のように話します。
「まずは1人目という意識が強かったのですが、夫とは兄弟についても話をしていて、『2人兄弟は頑張りたいね』という意見は一致していたので、あまり迷うことはありませんでした」
気苦労が絶えなかった「2人目の不妊治療」について
1人目を産んで、しばらくして頭に浮かんできたのが、先ほども話をしたもう一つの凍結胚のことだったと芳子さん。直接的なきっかけとなったのは、保管期限が少しずつ近づいてきたことでした。出産後も定期的に通っていた主治医からは、「授乳が終われば次の治療ができる」ということを聞いていたこともあり、芳子さんはとある行動に出ました。
「あるとき。2人目の不妊治療を始めたいと思っていた時期から逆算し、このときには卒乳したいという日を決めました」と話す芳子さんは、その日から断腸の思いで、卒乳に向けて動き出したそうです。
「授乳するときに、カレンダーを見せて、『ここの日になったらおっぱいとバイバイだからね』と伝えるようにしました」
その効果があったのかどうか定かではないそうですが、想定していた日よりも3ヶ月ほど前倒しで卒乳でき、無事に2人目の治療に移ることができたそうです。2人目の不妊治療については、凍結卵を保存していたため採卵などをしなくてよい分、「通院回数は少なくて済んだ」と言いますが、一方で別の気苦労もあったようです。
「子どもを病院内に連れ込めないので、かなり苦労しました。というのも、私が通っていた病院は、過去に患者さん同士で、子どもを連れてくることに関してトラブルがあったらしく、当時は流行っていたmixiなどでも、そうした書き込みが多数見られたんです」
通院には車で2時間近くかかりますが、慶治朗さんも毎回都合よく仕事が休めるわけではなかったため、子どもを連れて行くしかないときもあったそうです。そうしたときは、配慮するように心がけました。
「もちろん病院側も対策を講じてくれていましたが、それでもやっぱり神経は使いましたね。そこでは診察する建物の向かいのに保育ルームを設けていて、子どもを預けてから診察券を出しに行きます。そうしたらコソッと病院を抜け出して、保育ルームで待機します。保育ルームに行くことがわからないようにするためです。さらに、順番が来ると合図がくるようになっているので、裏口から中待合にこっそり入るようになっていました。ここでも、保育ルームから来たということがわからないような仕組みを取っていました」
そうした気苦労はあったものの、治療自体は順調にいきました。残り1つの凍結胚で無事に妊娠し、出産までいくことができたそうです。結局のところ、芳子さんの場合、「大きな問題があったのは排卵の機能のところ」と主治医から伝えられたのだと話します。
治療のこと、経済的なことを考えて3人目は諦めた
1人目、2人目と不妊治療で妊娠・出産をした池内さん夫婦。金額的にはどのくらいかかったのでしょうか。芳子さんは、「払った金額は全部で100万円くらいで、助成金や保険適用などもうまく活用したので、実際に払った金額は50から60万円くらいだと思います」と話します。
数百万円のお金がかかる人も少なくない中、どちらかといえばお金はかかっていないほうかもしれません。この点について芳子さんは、次のように自己分析しています。
「私の場合、担当医が早い段階でタイミング療法や人工授精を飛ばし、体外受精を薦めてくださったのが結果的に良かったのだと思っています。金額を抑えられたのもそのおかげでしょうね。さらに、病院から『この薬は保険が適用されるあの薬で代替できますよ』といったアドバイスもしてもらったことも、節約できた要因のひとつです」
現在、池内さん夫婦の子どもは2人とも小学生になり、乳幼児特有の気苦労は減り、生活が落ち着いてきたと言います。そうした中、「正直なところ3人目も考えたことがある」と芳子さんは言います。
「確か35歳になる少し前だったと思うのですが、高齢出産に入ってくるので、『3人目を考えるなら今かもしれないね』という話を夫婦でしました。特にうちは2人とも男の子で、贅沢かもしれないけれど、女の子が欲しいという気持ちがありました。でも、結論としては断念しました」
端的に言えば、本当は欲しかったけども、諦めたということのようです。なぜなのでしょうか。断念をした理由は2つだと言います。ひとつは治療のこと。比較的期間が短かったとはいえ辛く、特に採卵のときのことを思い出すと今でもゾッとするそうです。
「採卵後、麻酔から目が覚めて、しばらく休んでから夫が運転する車で病院を出たのですが、すぐに嘔吐しました。道中の2時間の中で何回吐いたか覚えていないくらいです。さらに、膣から卵巣に向かって注射を刺すのですが、その出血もすごかった。止血のためにすごく長いガーゼを体に詰め込んだまま帰宅したので、なんかもうボロボロになりましたね」
もう一つは経済的な理由。2人目のときは採卵が済んでいたこともあって、2人あわせても先ほど書いたような金額に押さえることができました。しかしながら、そこから5年以上の月日が経っている、つまりそのぶん年齢を重ねている今、治療期間が長引く不安があったようです。
「すべてのステップで余計に時間と手間がかかるのではないかと思いました。治療を始めたものの、終わりが見えなくなって、数百万円単位のお金がかかる可能性も十分にあるなと……」
そのとき、世帯年収は夫婦共働きで約800万円。さらに、2人目が生まれてほどなくして慶治朗さんが転勤となり、同じタイミングで家を建てたこともあって、単身赴任という道を選んだそうです。手当がつくうえ、社員寮もあるそうですが、それ以上に月1〜2回の帰宅費用と生活費をあわせると、800万円の割には経済的な余裕は少ないと芳子さんは語ります。
「それならば、今の二人の子どもたちにお金を回してあげたほうがいいだろうと夫婦で決めました」
さらに、この単身赴任というのが、1つ目の理由にあげた治療にも関わっているそうです。「実質的に夫の助けがない中、小学生になっているとはいえ、子ども2人を育てながらの治療は現実的ではありません。そのことは、夫の助けが得られた2人目の治療のときでさえ痛切に感じていましたので……」と芳子さん。
最後に、これから妊娠や出産を考えている人へのメッセージも聞きました。
「一言でいえば、『自分は大丈夫』と過信しないようにしてください、ということです。治療にあたっては、2人目以降のプランがあるならば、そこまで視野に入れておくことも大事なのかなと思いました。私の場合は、幸運なことに2つの凍結した胚盤胞が2つとも順調にいきましたが、どちらか一方でもうまくいっていなければ、もう一度採卵に戻らないといけなかった。そう考えると、もちろん病院によって治療方針があるので、難しい場合もあるのかもしれませんけれど、最初の段階でもう少し頑張って採卵をして凍結卵を保管しておけば2人目3人目の希望も叶いやすく、そういう選択肢もあったのかなって思います」
※本インタビュー記事は、「二人目不妊」で悩んだ人の気持ちや夫婦の関係性を紹介するものです。
記事内には不妊治療の内容も出てきますが、インタビュー対象者の気持ちや状況をより詳しく表すためであり、その方法を推奨したり、是非を問うものではありません。不妊治療の内容についてお知りになりたい方は、専門医にご相談ください。