本当は2人以上の子どもが欲しいにもかかわらず、その実現を躊躇する「二人目の壁」。1more Baby応援団が全国の子育て世代の約3000人に対して行った調査では、7割以上の方がこの「二人目の壁」を感じていると回答しています。

この記事では、そんな「二人目の壁」を実際に感じている方、感じたことがある方に行ったインタビューの内容をご紹介しています。もしかしたら、あなたの「二人目の壁」を乗り越えるためのヒントが見つかるかもしれません。

今回は、5歳と3歳になる2人のお子さんがいる本田寿人さん(30歳・仮名)と遥香さん(33歳・仮名)夫婦のお話です。不妊治療を含め、妊活で苦労した経験はない本田さん夫婦ですが、主に2つの理由から〝2人目の壁〟を感じたという遥香さん。

1つは経済的な面。もう1つは感覚過敏の傾向をもつ1人目の育児に関して。しかし、とあるきっかけで「2人目が欲しい」ことを自覚した本田さん夫婦は、2人で相談した結果、「子どもをつくろう」という決心をしました。

ほどなくして2人目を妊娠し、出産。第一子の壮絶な赤ちゃん返りなどで苦労しつつも、5歳と3歳に成長した2人の子どもとともに、日々の生活を楽しむ余裕が生まれてきたそうです。出会いから結婚、第一子と第二子の妊娠・出産、その後の生活におけるリアルな気持ちの変化について聞いていきます。

仕事を通じて出会い、半年の遠距離恋愛を経て結婚した

本田さん夫婦の出会いは、2人が結婚する約2年前のことでした。当時、関西と北関東という遠く離れたところに住んでいたものの、お互いに「この人しかいない」と思い、恋愛に発展していきました。

「最初の出会いは仕事です。同じプロジェクトに関わったことがきっかけでした。『1を喋っただけなのに、10も共感できる。こんな人がこの世にいるんだ』って感動しました。向こうも同じことを感じたみたいで、1年後くらいの夏休みに、遠くに住む私のところまでプライベートで会いに来てくれました」

すぐに遥香さんは「付き合うならば結婚を前提にしたい」という思いを寿人さんにぶつけました。運命的な相手だと感じたことに加え、ちょうど遥香さんの友人関係で結婚ラッシュがあったこと、遠距離恋愛で交際費がかさむことなど、総合的に考えてのことだったそうです。すると、「僕も真剣に考えている」という返事が戻ってきました。その後、何度かのデートを経て2人は結婚の約束をしました。

「仕事の区切りがある年度末まで待って、そこでも同じ気持ちだったら仕事を辞めて、彼の住んでいる街に行って結婚しようと話しました。そこで、年末には夫の住んでいる街での就職先も決めようと転職活動もしました」

学生の頃からの夢だった仕事に就いていた遥香さん。仕事に対する使命感と熱量をもった彼女の転職活動はスムーズにいきました。

「仕事先も見つかり、お互いの両親への挨拶も済ませてと、一気に話が前に進んでいって、あとは婚姻届を出すだけという状態になりました。そうしたら、1月に妊娠していることがわかったんです」

婚姻前の妊娠ということで、両親への報告こそ億劫だったものの、2人は妊娠を喜び合いました。そして予定通り遥香さんは4月になって転居し、婚姻届を提出しました。

長く苦しい陣痛の間に「幸せ」を噛み締めていた!?

妊娠期間中は大きな問題もなく過ごしましたが、出産自体は大変だったようです。しかし大変だったにもかかわらず、これまでの人生のなかでも最も幸せな瞬間だったとも振り返ります。

「予定日の2週間くらい前にたくさん歩いたんです。そうしたら翌日にすごくお腹が張って、胎動があまり感じられなくなったので病院に行ったら、陣痛が始まっているということでした。まだ前駆陣痛でどうなるかわからないから、とりあえず自宅で安静にしてくださいと言われたので、家でじっとしていたら破水したんです」

ちょうど仕事から帰宅する最中だった寿人さんとともに、ふたたび病院に行った遥香さん。赤ちゃんは降りてきているものの子宮口が一向に開かなかったのだと言います。しかし、夫婦2人で耐えているその時間に幸せを感じたのだとか。

「『もう赤ちゃんがもたないかもしれないから、帝王切開に切り替えましょう。いいですか?』と先生に聞かれたときに、夫がすごく泣いてくれたんです。普段はまったく泣かない夫が、『遥香は十分頑張ったから、もういいよ』って泣きながら言ってくれました。生まれてきた瞬間もそうですし、入院中もそうですけど、私がすごく大切にされていると感じられた日でした」

退院後、初めての育児が始まりましたが、待っていたのは想像以上に大変な日々でした。

「とにかく寝ない子で、基本的には授乳の時間以外は夜の6時から深夜の3時まで泣き続けていました。気晴らしにテレビをつけても泣き声で何も聞こえないし、夫が帰ってきて寝かしつけてくれようと頑張ってもダメだし、結局なんとか寝かせつけられるのが3時、みたいな毎日でした」

感覚過敏を持っていた第一子の子育てはとにかく手間がかかった

もちろん成長とともに睡眠時間は長くなっていきました。しかし、大変な日々には変わりありませんでした。

「とにかくいろんなことに敏感で。眩しいのがとにかくすごく苦手だったり、縫い目が気になって靴下がはけないとか、ちょっとでも熱かったり冷たかったりする食べ物を口にいれたら、もう二度とその食べ物は食べないとか。保育園にも通い出したんですが、保育園の帽子以外の帽子はまったくかぶっていられなかったり……。新生児の頃に泣き続けていたのは、感覚が過敏だったからなんだなって、後から気づくことができた感じです」

そうした第一子を抱えていたことと、経済的な不安もあって、なかなかすぐに「第二子を」という気持ちにはなれなかったと言います。

「先ほど結婚する前に転職活動をしたという話をしましたが、実は妊娠が判明して、それを内定先の職場に伝えたら、お断りされてしまったんです。実際には、向こうは正面から入社を断ることはできないから色々な理由をあげつらって、辞退するよう迫ってきたという感じです」

寿人さんも遥香さんも経済的な余裕がない家庭で育ちました。だからこそ、家計のことを考え、働くことを希望していたそうですが、そうは問屋が卸しませんでした。

「家計のことを考えたら働きたかったのですが、私自身はまだ関西にいましたし、子どもが無事に生まれるかもわからない、健康に生まれたとしても保育園に預けられるかもわからない。そうしたなかで『どうしてもここで働きたい』とは言い切れませんでした。自己都合での退職なので、失業手当も出ませんでした。ある意味、1年間は想定していたお金がまったく入ってこなかったということです」

とはいえ、幸いなことに遥香さんは別の正社員での働き口が見つかると同時に、第一子が「0歳児クラス」に入ることもできました。それでもすぐに「第二子を」とはいけなかったのには他の背景もあったようです。

「1人目が生まれたときには、夫の実家が近くにあって、サポートもしてもらっていたのですが、しばらくしたら経済的な理由からその家を出ていかなくてはならなくなったんです。むしろ夫のほうが実家をサポートしないといけない状況になって、より金銭的には苦しくなりました」

第一子の感覚過敏、そして金銭面から2人目の壁を感じていた本田さん夫婦ですが、とあるきっかけで2人目に踏み切る決心をしました。

「避妊はしていたのですが、あるときに生理が来ない月があったんです。もしかしたら妊娠しているのかもと夫に伝えたのですが、結局は生理が遅れているだけだったんです。そのときに、2人でとてもがっかりしたんです。『あ、私たち本当は2人目が欲しいんだ』って強く認識した瞬間でした」

それからは経済的な面では不安はあるものの、なんとかなるはず。だから子どもをつくろうと積極的に妊活したところ、すぐに2人目を妊娠することができたそうです。

コロナ禍での妊娠・出産体験は、第一子のときほどの幸せを感じられなかった

コロナ禍がやってきたのは、2人目の妊娠後のことでした。遥香さんは、第一子を産むときに感じた幸せな瞬間を期待していたのですが、残念ながら思うような出産体験にはならなかったと肩を落とします。

「コロナもあって、妊婦健診は1人で行かないといけないし、出産のときも立ち会ってもらうことはできませんでした。先ほどもお伝えしたように、第一子は繊細な性格の持ち主なので、妊婦健診には家族みんなで行って赤ちゃんを少しずつ認識できるようにしようとか、出産後には母子同室できょうだいも泊まれる病院を予約したりとか、いろいろ準備していたのに、コロナですべての計画がダメになって……。

そのうえ、第二子が妊娠初期から中期に入る頃に、発育不全の疑いがかかって大きい病院に通わなければならなくなったり、産休に入ってから保育園に預けられる時間もギュッと短くなったりしたので、妊娠中の重たい身体で第一子の面倒を見る時間も長くなって、非常に苦しい日々でした」

そうしたなか、保育園の正式な預け時間は短くなったにもかかわらず、現場にいる保育士の先生たちが遥香さんの苦しそうな表情を見かねて、配慮してくれたことがありました。

「うちの上の子が、面倒のかかる子どもであることは保育園のなかで周知の事実だったこともあって、担任の先生に『苦しいんです』って伝えたら、とても親身になってくれたんです。本当に苦しいときには上の子を時間外でも預かってくれましたし、私に時間を割いて話を聞いてくれたりしました。『上の子は私たちもサポートしていけるので、いまはお腹のなかの子どもを最優先に守ってあげて』と言ってくれたこともあって、とても救われた思いをしました」

もちろん寿人さんもできる限りサポートしてくれました。

「『もしお腹の中の子が発育不全で障害とかあったとしても、僕たち2人だったらうまく育てていけると思うよ』とか目一杯の心の支えをしれくれていたと思います。ただ、やっぱり出産のときには制限がありました。予定帝王切開手術での出産でしたが、手術のときに何かあったときのために病院にいる必要があったとき以外は、入院中の1週間はまったく会えませんでした。1人目を産んだときとはまったくかけ離れた1週間で、今でもそのことは引きずっています」

1人目のときは生まれてからの入院中は、毎日変わっていく新生児の姿を2人で見届け、さらに動画もたくさん撮るような日々でした。そうしたことがまったくできなかったのが、心残りなのだと言います。

「上の子が、壮絶な赤ちゃん返りをしたんです。いまでもその名残があって、私に対して〝抱っこ、抱っこ〟がすごくて。どうしても私には、第二子の妊娠から出産にかけての一連の経験が影響していると思えてしまうんです。感染症なので仕方ないことかもしれませんが、〝コロナのせいで〟という気持ちはありますね」

壮絶な赤ちゃん返りで心が折れたときに救われた「夫からの言葉」とは

ただ、そうした壮絶な赤ちゃん返りに対するわだかまりも、寿人さんからの一言で軽くなったと振り返ります。

「私自身、保育の資格も持っていますし、夫も子どもに関わる仕事をしているので、意識して〝上の子を優先に〟という生活をしてきました。でも、できていたトイレができなくなり、オムツに戻り、靴も服も自分でできない。チックも出たし、吃音にもなって、爪噛みや指吸いも始まりました。特に吃音はかわいそうで、うまく喋られないと本人もしょっちゅう泣いていました。

そうしたなかで、遥香さん自身も我慢できなくなって、涙が止まらなくなってしまったことがありました。そんなとき、寿人さんがこんな話をしてくれたのだとか。

「『コップの大きさってきっと子どもによってみんな違うから、こちらがいくらたくさんの愛を与えたとしてもコップが大きい子どもは、なかなかいっぱいにならないんだよ。遥香の何かが不足しているんじゃなくて、この子のコップがすごく、すごく大きい。それだけのことだよ』って言ってくれて。そう考えたら、スッと心が軽くなったのを覚えています」

その後、第一子は下の子がいる環境に慣れ始め、本当に少しずつではあるものの生活も安定していきました。もちろん金銭的な面での不安は完全には拭えていません。実際、「3人目もいいな」と思いつつ、踏み切れないのは将来の生活に自信が持てないことが要因の1つだと言います。

いずれにしても、4人の生活が始まり、家族として少しずつ成長し、また子どもたちから教えてもらうこともすごくたくさんあるなか、現在はこんなふうに感じていると遥香さんは語ります。

「いまの2人の子どもたちをみていると、本当にお金では買えない貴重な経験や幸せを与えてもらっていると感じています。すごく大きな財産をもらったというか、うまくいえないですけど、家族としても夫婦としても、すごくいい関係になることができています。とくに下の子が3歳になって、1人で寝てくれるようになって、さらに1段階、家族としても自分の人生としてもステージが上がった感じがするというか。とにかく日々、大変なこともあるけれど、楽しく暮らすことができています」

いかがでしたでしょうか。もしかすると、第一子の赤ちゃん返りや金銭面の不安などに関して、「大げさじゃないか」と思われた方もいるかもしれません。しかし、少なくない家族が通る道だとするならば、みんなで共感し合ったり、解決に向けて知恵を出し合ったり、遥香さんが保育園で経験したように、社会として支え合うようなことも必要ではないでしょうか。