本当は2人以上の子どもが欲しいにもかかわらず、その実現を躊躇する「二人目の壁」。1more Baby応援団が全国の子育て世代の約3000人に対して行った調査では、7割以上の方がこの「二人目の壁」を感じていると回答しています。

この記事では、そんな「二人目の壁」を実際に感じている方、感じたことがある方に行ったインタビューの内容をご紹介します。もしかしたら、あなたの「二人目の壁」を乗り越えるためのヒントが見つかるかもしれません。

今回は、3歳と2歳のお子さんがいる大崎太郎さん(33歳・仮)と葉菜子さん(40歳・仮)夫婦のお話です。ベンチャー企業で働く太郎さんと金融機関や外資系企業などの多彩なキャリアをもつ葉菜子さんは、いわゆる姉さん女房で、7歳の年の差があります。

第一子はタイミング療法を試みた後、人工授精で妊娠・出産しました。妊娠までは約2年かかりました。第一子を出産して約5ヵ月後に自然妊娠し、第二子を出産しました。

まだ診断が下されているわけではないようですが、第一子は発達障害にあてはまる特性があることから想像以上に子育てに手がかかっており、加えて第二子もイヤイヤ期真っ只中ということで、現在の葉菜子さんは専業主婦として多忙な毎日を送っています。一方の太郎さんも、家のことは葉菜子さんに任せっぱなしではなく、普段は在宅勤務で働きながら、子育てや料理を担う日々を送っています。

実は、葉菜子さんには34歳のときに保存した凍結卵がありました。第二子出産後、第三子の妊娠・出産も視野に入れていましたが、「難しい」と判断し、破棄する選択を選んだといいます。そこには、どういった経緯や葛藤があったのでしょうか。詳しく聞いていきます。

卵子凍結に係る自治体の補助制度に応募した訳とは?

葉菜子さんと太郎さんが出会ったのは2015年のこと。得意の語学が活かせる職場で働いていた葉菜子さんが、次のキャリアを模索するなかで通っていたビジネススクールでのことでした。大学院を卒業して新卒3年目 に差し掛かろうとしていた当時26歳だった太郎さんも、葉菜子さんと同様にネクストキャリアを思案していたといいます。

「最初は友人関係でした。自分のスキルをどう磨いていくか、どのようにキャリアを築いていくかという共通の課題意識があったので話が合いました。とはいえ、年齢的に私のほうが7歳ほど上ということもあって、恋愛対象としてはお互い見ていなかったのですが、プライベートのことも含めて相談しあううちに、互いの価値観に触れるなどして少しずつ距離感が狭まっていったような感じです」

お二人が結婚したのは、葉菜子さんが34歳のとき。交際期間は1年未満とやや短めで、なおかつ太郎さんの年齢も28歳と平均初婚年齢よりも若めですが、「2人以上の子どもが欲しい」という共通の願いがあったため、結婚に踏み切りました。

「私も夫も、きょうだいがいましたので、2人以上は(子どもが)欲しいよねというところで意見は一致していました。そうなると、最もネックとなると思われるのは私の年齢ですので、『結婚して子どもをつくるのなら、なるべく早いほうがいいよね』という話もしていました。ちなみに、そういった人生設計や家庭に関する相談は、結婚後のいまも月1回程度、定期的にしています」

そのようにして大崎さん夫婦が家族として一緒になっていくのと並行して、葉菜子さんは冒頭でも書いたように卵子の保存をしています。なぜなのでしょうか。

「当時、私が住んでいた自治体で助成制度を行っていたからです。確か、市の広報誌で周知活動していたのを見たのを記憶しています」

いくら助成制度があったからといって、実際に手をあげてみようという人は多くありません。葉菜子さんも、当事者意識を持つような個人的な出来事があったわけではないようです。

「もともと婦人科系の病院に通っていたりとか、そういった類いの不調があったりしたわけではありません。ただ、私には年齢の離れた姉がいて、長年にわたって不妊治療に苦心する姿を見てきました。そんな姉が、ポロッと『私が該当の年齢だったら絶対にやりたかった』と言ったんです」

同制度では34歳という年齢の区切りを設けていました。葉菜子さんは、ちょうどその年齢に差し掛かろうとしていたことから、「よくわからないけれども、ひとまず行ってみようかな」という気持ちで応募したのです。

「もともと好奇心旺盛なところもあったので、(卵子の採卵や凍結まで複数のステップがあることがわかっても)やってみようという気持ちは変わりませんでしたね。当時、まだ結婚前だったので、夫と入念な相談の上というわけではなく、自分自身で決断して、その後に夫となる太郎さんには、『こういうのをやってみる』とだけ伝えたのを覚えています」

2017年に採卵し、凍結保存を行いました。 その数カ月後に太郎さんとの結婚の話が進展し、籍を入れたと言います。

「未受精卵という形で採卵をして、3年間は自治体の補助(無料)で保存していただきました。その後、2019年と2020年は自費で(保存のための)更新料を払いましたが、2021年の更新のときに、夫と相談して破棄という形を取りました」

半年のタイミング療法の後に行った人工授精で第一子を妊娠・出産

なぜ破棄という道を選んだのでしょうか。話は卵子凍結の事業に参加したときに遡ります。

「先ほどもお伝えしたように、卵子を凍結した後、数カ月後に太郎さんと結婚をしたのですが、すぐに妊活を始めました。卵子凍結の際に、危機感が芽生えていたからです。それまで私は、姉の苦労を横目で見ながらも、漠然と自分は普通に妊娠・出産できるだろうと考えていました。でも、その事業の一環として、リプロダクティブ・ヘルスとかリプロダクティブ・ライツと呼ばれる権利や、それに紐づいた加齢と卵子に関する知識などを学ぶ機会をいただきました。そこで、実姉が経験していることは、他人事ではないということをようやく自覚できたんです」

自己流ではあったもののタイミングをはかったトライを、1年近く続けました。しかし妊娠できなかったことから、夫婦2人で不妊外来にかかることにしたそうです。

「私自身は、年齢的なところもそうですけども、マイクロポリープが割とたくさんできているということでした。夫のほうも、仕事が多忙であったことも影響していたようですが、精子の動きが良くないという指摘がありました。そうした複数の要因で不妊になっているのかもしれないとのことで、まずはタイミング療法をやってみましょうということになりました」

それから半年をかけて医師の指導のもと、タイミング療法での妊娠を目指したものの、うまくいかなかったようです。そこで次のステップとして、人工授精に切り替えるのはどうかという提案があったと言います。

「先生からは、『人工授精に切り替えてもすぐに妊娠できないかもしれない。その場合は、マイクロポリープを除去するオペをしたり、体外受精をすることになったりするかもしれない』といった、先々の話がありましたので、長期戦を覚悟していました。でも、蓋を開けてみたら最初の人工授精で妊娠できました」

ちなみに葉菜子さんは、不妊外来にかかり、不妊治療を本格化させるタイミングで、当時の仕事を辞めています。

「体調を崩していようがとにかく穴を開けてはいけないような職場でした。一方で、
不妊治療が始まると自分の体のコンディション次第で、この日に絶対に病院へ行かないといけないということが起きてきますよね。その両立が端から無理だということが見えていたので、5年ほど続けていたそのときの仕事は辞めてしまいました」

いずれにしても、最初の人工授精で妊娠に成功した葉菜子さん。妊婦生活は順調そのもので、幸せな気分になる経験を何度もしたのだとか。

「マタニティマークをつけて生活していると、嫌がらせに遭うみたいな話も聞いていたので、怖かったんですけど、実際には正反対で、運が良かっただけかもしれませんが、みなさんがとてもよくしてくれました。お腹が大きいのを見たお店の方が優しく応対してくれたり、道行く年配の方が『女の子でしょう。お腹を見たらわかるわよ』と話しかけてきてくれたり。電車に乗っているときも、高校生くらいの男の子なのに、席を譲ってくれたりとか。毎日ではないんですけど、かなりの頻度でそうした社会の温かさを感じるシーンに遭遇していました。本当にありがたかったです」

生後1ヶ月で母乳からミルクに切り替えたわけ

予定日を過ぎてもなかなか赤ちゃんが出てこなかったり、無痛分娩を予定していたのにうまく麻酔が効かなかったり、心拍数の低下の兆候が出て急きょ帝王切開に切り替えたりしたものの、「3000グラムを超える赤ちゃんが無事に生まれ、ほっと胸をなでおろした」と葉菜子さん。

出産後は、太郎さんが約2週間の育児休暇を取得し、葉菜子さんを全面的にサポートしてくれました。

「夫が勤めていたのは創業まもない小さなベンチャー企業だったので、まわりには迷惑をかけたのではないかと思いますが、2週間近く育児休暇を取ってくれました。これは私自身の望みだったんですが、我が子の人生初のオムツ替えは、夫にやってもらうと決めていたので、それを入院中に実行してもらいました。新生児の育児は男性側が蚊帳の外になりがちと聞いていたので、育児スキルをつけていってもらったり、父親としての自覚を芽生えさせたりするために、お願いした形です。夫も、嫌な顔ひとつせず、当然のようにこなしてくれていました」

徒歩圏内にある実家のサポートもあって、順調に子育てを開始した大崎さん夫婦ですが、生後1ヵ月で母乳育児を諦め、ミルクに切り替えた点では苦労したと言います。

「第一子はお乳を咥えるのが非常に苦手で、自治体が派遣する助産師さんにも2度ほど相談したんですが、うまくいきませんでした。そのときの助産師さんからは、『乳腺外来に行って本格的に検診するか、一度、ここで区切りをつけてミルクに切り替えるか、どちらかにしたほうがいい』と言われて、ミルクを選びました」

もともと自分自身のことでいっぱいいっぱいになりがちであることを自覚していた葉菜子さん。ミルクに切り替えることで、むしろ子育てがスムーズになるかもしれないと前向きに考えたそうです。

「私が専属で赤ちゃんにかかりっきりになるのではなく、夫や近くに住む実家の両親も関わりやすくなるということで、ミルクで育てることを前向きに捉えることにしました。もともと料理自体、夫のほうが得意なので、任せることも多かったのですが、離乳食が始まってからも、夫婦で相談しながら分担してやっていきました」

自然と母乳がとまった ことで、数ヵ月後には生理が再開したという葉菜子さん。第一子の妊娠には2年近くを要したことから、第二子が欲しいならば、なるべく早く取り組んだほうがいいだろうと話し合い、当初は産後1年を目処に不妊外来に通う心づもりでいたそうです。

「第一子の時の経験で自然妊娠は諦めていたのですが、年齢的にも可能性は狭まる一方で焦りもあり、もしチャンスがあるのなら掴みたいという思いはありました。卵子凍結もその1つですけども。そうしたら、第一子が生後半年をむかえる頃に、まさかの自然妊娠が判明しました」

切迫早産になったものの、周囲のサポートによって無事に第二子を出産できた

第一子がまだ歩き出してもいなかったタイミングで、子育てに関する不安がまったくなかったわけではありませんでしたが、「この子は大事に産んで、育てよう」と迷うことなく決心したそうです。幸い、第一子はよく寝る赤ちゃんで、しばらくは大きな問題もなく妊婦生活と子育てを両立できました。

しかし、27週目をむかえたあたりで出血していることに気づきました。

「夜のことだったので動揺してしまったのですが、一度産婦人科に連絡し、ひとまず安静にするよう言われ、その後指示に従い再度朝イチで連絡しました。そうしたら、『なるべく自力で動かないようにタクシーで来てください。場合よってはそのまま大学病院などの大きな病院に転院して、出産する可能性もある』と言われて、子どもを失ってしまうのではないかとの恐怖もあり、一気に血の気がひきました。 結局、緊急手術で早産ということにはならなかったんですが、低置胎盤という診断で、その場で入院となりました。しかも大きな血管のすぐそばに血の塊ができてしまったので、万が一破裂してしまうと、大量出血で自分自身も危険な状態になると言われました。助産師さんの言葉(第二子の妊娠は産後1〜2年という)を守るべきだったと自身の軽率さを反省しましたが、とにかく目の前のことで必死でした」

医師からは、「もしかしたら出産までの3ヵ月、ずっと入院することになるかもしれない」と告げられたものの、3週間の入院後、絶対安静を条件に帰宅を認められたと言います。

「当然、ちょうど生後1歳になるくらいだった上の子を抱っこしてはだめだし、トイレすら気をつけて行くように言われました。とにかく横になって安静にしていることという指示だったので、家族3人で実家にしばらく居候することにしました」

すでに職場復帰を果たしていた太郎さん。もともと週2、3回は在宅勤務をしていましたが、ちょうどコロナ禍が起きたこともあり、ほぼ(必要なとき以外)在宅勤務に切り替えていました。

「第二子の育児休暇自体は、トータルで4ヵ月くらい取ってくれました。とにかく夫の職場には感謝しかないです。 それと、在宅勤務に切り替わっていたことで、私が入院中も、なんとか生活を成り立たせることができていたみたいです。もちろん両親のサポートもあってのことですが、夫自身も、仕事しながら育児や家事をこなしてくれていました」

その後、37週で予定帝王切開にて第二子を出産しました。

入園予定の園長先生からの声掛けに号泣してしまった理由

無事に2人の子どもを設けることができ、多忙ながらも幸せな日々を過ごしていた葉菜子さん。「年子の2人を保育園にあずけて仕事復帰」というのは現実的ではなかったため、幼稚園への入園を決めたのですが、そこから少しずつ第一子の成長具合が遅いことに気づかされてきたと言います。

「私が見る限り、自閉スペクトラム症のような特性が出ていると感じています。言葉の面でも、体の面でも、違和感をおぼえることが多くなってきて、特に第二子と比べるとできないことが多くて。もちろんそんなふうに子どもをラベリングすることに葛藤はあるのですが……」

葉菜子さん自身のなかで、決定的な出来事もありました。それは入園予定の幼稚園の面接時のこと。

「園長先生から『療育をはじめたほうがいいかもしれませんね』と言われたんです。それで、自分の違和感は勘違いではなかったんだなって思って、少し肩の荷が降りた感じがして、思いっきり泣いてしまいました。いずれにしても、その園長先生は本当に良い方で、入園を受け入れてくださったうえで、『一緒に(子育てを)頑張っていきましょう』と言ってくださいました」

そうしたなか、自分自身の年齢と体力も鑑みて、4年近く保管してあった凍結卵については、第三子のために使うのは「難しい」と判断し、破棄するに至ったようです。

「もちろん第三子はほしいです。でも、目の前にいる家族である夫や子どもたちに負担を強いたりとか、どこかで犠牲を払う部分が出てきたりするなかで、果たして本当に望んでいいものなのかを考えました。夫ともすごく相談して、話し合いました。その結果、破棄する決断をしました」

実は、第二子を予定帝王切開で出産した際、医師から卵管結紮の話も出ていたそうです。しかし、「凍結卵がまだ残っている」ということも頭をよぎるなか、3人目を産むという可能性を閉ざすことに対して即決はできなかったと葉菜子さんは言います。

「2人の子育てで手一杯な今、卵管結紮は確かに現実的な選択だったのかもしれませんが、そのときの私はきっと(3人目の)自然妊娠への望みも残しておきたかったというのが、本音だったのだと思います」

夫婦で話し合いながら納得できる道を探していきたい

最後に葉菜子さんはこう話してくださいました。

「私自身、昔から『後悔はしたくない』というポリシーを持っています。反省をしても後悔はしたくないっていう。失敗は挽回できるけど、後悔レベルまでいくと過去には戻れないし、取り返せないですよね。後悔すると、一生自分の心に傷として残ると思っているので。

でも、妊娠や出産となると、本当にそれはパートナー自身のことや、自分の体力次第なところもありますし、結婚も妊娠も出産も、どうしても、その先が想像しづらいものですよね」

予期せぬことが起きたらどうしたらいいのかなと思ったときに、やはり自分自身がいかに後悔しない選択をできるかというのが大事ではないかと、葉菜子さん。こう続けます。

「大切なのは知ること、そしてリミットを決めることだと思います。たとえば、子どもに発達障害があることがわかったら、その知識を身につけたり、周りの環境を整えていったり。さらに、自分自身との対話ではないんですけど、自分はどこまでのことを望んでいて、どこからは手放せることか。期限はいつにするのか。 そうしたことも整理していかないと後悔につながってしまいます。」

今回の件でいえば、凍結卵を破棄する決断をした葉菜子さん。だからといってその決断を後悔しているわけではないと言います。

「仕事も同じで、自分のなかに復帰したい思いもあるし、夫からも『仕事に復帰したらいいじゃん』と急かされることもあるんですが、そこは自分が置かれた状況を俯瞰して捉えると、今は仕事(キャリア)を手放して、とにかく子どもたちに向き合っていこうと考えています。適したタイミングは自分だけで決められるものでもないので。

すべてが自分で思い描いたとおりにならなくても、それに近づく努力というのはできると思っています。大切なのは、自分自身の納得度ですから。あんまり頭でっかちにならず自分の心の声も大事にしながら、まわりの人たちと話し合いながら、パートナーである夫と納得できる道を探して、進んでいけば、こんな人生も悪くないな、幸せだな、と感じることはできると思うのです」

いかがでしたでしょうか。今回ご紹介した大崎さん夫婦のお話には、「二人目の壁」を考えるにあたって、たくさんの視座があるのではないでしょうか。