今回ご紹介するのは、これから二人目の不妊治療のことを考え始めた38歳の中村あずささん(仮名)と34歳の隆晴さん(仮名)夫婦です。
5年以上に及ぶ不妊治療を経てようやく授かった一人目は、17週のときに切迫流産となり入院。それから30週にわたる入院生活を経て出産に至りました。
そうした苦労を経験したお二人は、二人目の不妊治療に対してどんな思いを持っているのでしょうか。
二人とも早い段階から不妊症のことが少し頭にあった
中村さん夫婦は1人目を授かるまで、長い道のりを歩みました。2012年に結婚するも、ほどなくして隆晴さんの仕事の関係で別居婚となりました。1年半に至る別居生活のなかでも、なるべく夫婦の性生活を持つようにしてましたが、なかなか妊娠の兆候は見られませんでした。
「僕は、実は被爆3世なんですね。だからふとしたときに、不妊症のことが頭に浮かんで、病院にかかってみようかって話をしました」
「私ももともと子宮筋腫を持っていたんです。なかなかできないこともあって、ちょっと病院に行ってみようかなと軽い気持ちで足を運びました。まずはタイミング法ということで、排卵日を基礎体温などから特定して性行為をしていたんですが、なかなかできませんでした」
そうこうしているうちに、隆晴さんの転職をきっかけに転居することになりました。その転居先の町には、あずささんが働く職場の支社もあったため、同居することができました。
「そっちでも割と早く病院には行って、タイミング法を一からやり直しましたが、半年してもだめでした。それで卵管造影検査の話が出て、不妊治療が本格的になってきたのですが、その矢先にまた転勤になりました。一応、子宮が機能していること、子供ができる体であるという検査結果だけはもらいました。転勤といっても栄転ですし、もともと私たちが出会った町に帰れることになるので、基本的には喜んでいました」
不妊症の危機意識が頭にあった隆晴さんは、あずささんが病院に通い出すタイミングで、率先して精液検査を受けたと言います。
「もちろん僕も検査しました。妻が通いだしたのとほぼ同時期くらいでしょうか。運動量が少し足りないかなというくらいで、基本的には問題ないという結果だったのを覚えています」
二人が出会った町に帰ってきたことで、腰を据えて妊活に取り組もうと話し合った中村さん夫婦。病院のこともあり、転勤には「待った」をかけ、エリア内でももっとも大きくて不妊治療の専門病院に通いだしました。
タイミング法と3度の人工授精、3度の胚移植もうまくいかず…
「そこでもまずはタイミングからといわれ、試みました。でもやっぱりだめで、3ヶ月して早々に人工授精をしてみましょうとなりました。人工授精は3回です。これもうまくいきませんでした。調べてもらったところ、2つの卵管のうち1つは完全にふさがっていて、もう1つは細いけれど通っているということで、その専門病院ではその細い道にかけようと考えていたようです」
その後、体外受精の話になり、そこで費用やリアルな治療法の説明を受けました。そのときあずささんが思ったのは、人工授精に比べて体外受精はこんなにも高いのかということ。それから卵管がつまっているため1本の細い道にかけていたという話を聞いたこと。さらに、先生が患者のことを覚えていなかったり、システマチックに作業が進んでいくことが重なって、「ここはやめよう」と決心したそうです。
「それなら小さい病院だけれど、体外受精もしてくれて、職場からも通いやすいところに変えようと考えました」
病院を変え、これまでの経緯を説明すると、いきなり体外受精をしましょうとなりました。さっそく採卵を行っていくも、ホルモンが合わなかったため1回目は空砲。2回目の採卵で10個ほどが取れ、そのうち7個ほどがふりかけ法で受精していったそうです。
「受精卵のランクはまちまちでしたが、『とにかく一番良い状態のものから』ということで、3回ほどチャレンジしましたが、いずれも移植が成功しませんでした。それでまた病院を変えました。次は民間の総合病院で、不妊治療も行っているところです」
ポリープ除去のため4回にわたる掻爬手術を行う
最初にしたことは、なぜ体外受精で3回とも失敗したのか、検査をすることでした。具体的にはファイバーで中を見てもらいました。その結果、イボができやすい体質だということで、子宮内にポコポコと無数のポリープができていたことがわかりました。
「そこから掻爬手術を3回やりました。それでも取り切れなくて、特殊なリングを1ヶ月くらい貼って、その部分だけポリープがなくなってきれいになるので、そこにピンポイントで着床させるという方法を取ることになりました」
しかし、そのリングを剥がした際、念のため検査をしてみると、蜘蛛の巣のような状態になっていて、「これでは着床は無理だろう」という医師の判断がくだされました。
「『申し訳ないけれど、私のところではこれ以上はできないので、知り合いの専門病院を紹介するからそちらで見てもらってほしい』と言われました。それまでの治療の経過を書いたすべての資料を渡してもらって、凍結していた残りの凍結胚も移動してもらいました」
残りの凍結胚は3つでした。中村さん夫婦は、それらが胚盤胞の状態だと聞かされていたそうですが、蓋を開けてみたら桑実胚。その病院では基本的に初期胚か胚盤胞しか凍結させないため、「桑実胚だとうまくいくかわからない」と言われたそうです。
さらに、紹介された専門病院でも子宮鏡で検査をしたところ、やはりポリープが見えるということで、カメラを入れて、目で確認しながら取る手術をしたほうがいいと勧められ、再度総合病院で全身麻酔をした掻爬手術をしました。
「手術はそれで4回目。もうこれにかけよう、という思いで、すぐに着床を試みました。そうしたらようやく成功したんです」
ようやく妊娠するも…ほどなくして切迫流産に
時を同じくして、二人は移住を決断していました。それまでは都心で暮らし、会社員をしていましたが、田舎暮らしをしてゆっくり歩んでいこうと夫婦で決めていたのです。あずささんは有給消化期間があったため、妊娠初期の1ヶ月弱は大いに体を休ませることができました。無事に引っ越しも済み、少しずつ田舎暮らしにも慣れてきたころに、またも試練が二人の前に立ちはだかりました。
「安心したのもつかの間、10月に引っ越しをして、その3ヶ月後の1月にはお腹が痛くなり、切迫流産になったのです」
妊娠17週にして移住先の小さな病院に緊急入院となり、トイレとお風呂にはなんとかいけるものの、ずっとベッドで横たわる日々を過ごしました。しかし2週間しても危険な状態から脱せず、焦った隆晴さんは、病院の先生に掛け合ったそうです。
このままでは流産の可能性が高く妊娠継続が難しいということで、頸管をしばる手術になりますと言われました。僕はそのとき、入院して1週間経過した段階で、一度手術という判断もできたのではないかと思いました。頸管の長さは短く悪化していましたから。それで、『手術がもしもうまくいかなかったらどうするのでしょうか。ここで手術をするのはリスクが大きいように思います』と言いました」
というのも田舎の病院ということで、新生児医療はそこまで整っておらず、手術がうまくいかなかった場合には、遠くの病院から別の医者を呼び寄せなくてはならなくなると説明を受けたため、隆晴さんは冷静なままではいられませんでした。
「それなら2時間近くかかるけれども、大きな総合病院まで救急搬送してもらえないだろうかと嘆願しました。そのとき22週と5日で、23週になったら取り上げられるわけです。しかも子宮頚管は2ミリを切っていましたから、なんとかお願いしますと頭を下げました」
そしてあずささんは総合病院まで搬送され、すぐに手術台にあがりましたが、子宮の腫れがひどかったため、少し落ち着かせてから子宮頸管縫縮の手術をしました。
手術は無事成功し、その約4ヶ月後に37週で出産。無事に生まれてくることができました。
苦労を重ねたからこそ二人目の不妊治療には思うところがある
さまざまな試練が立ちはだかった中村さん夫婦の一人目の不妊治療。そうした苦労があるからこそ、二人目の不妊治療については、思うところがある。あずささんはこう話します。
「卵管が詰まっていること、ポリープのことなどを考えると、自然にはできないと思いますので、二人目を授かるには不妊治療しかないでしょう。凍結胚はまだ残っていますし、チャレンジする気持ちはあります。ただ、0と1ではだいぶ違っていて、最悪、残りがすべてうまくいかなくても諦めようと思っていて、そのことについては夫婦でも話し合いました。今ある凍結胚がなくなれば不妊治療はやめようって」
一方、隆晴さんはこのように言います。
「もう生きるか死ぬかくらい壮絶な試練を何度も与えられてきた妻を見ていた僕からすると、軽いことは本当に何も言えません。僕もすごく子供に対する思いは強いですが、その何十倍も何百倍も病院に通い続ける妻のほうがそれは大きくて。だから妻がもう採卵はしないと言うのならば、全力でそれを支持しますし、なんかもう僕は全力で支えるだけです。幸い、田舎に移住して生活の余裕は今のほうが圧倒的にあるので」
※本インタビュー記事は、「二人目不妊」で悩んだ人の気持ちや夫婦の関係性を紹介するものです。記事内には不妊治療の内容も出てきますが、インタビュー対象者の気持ちや状況をより詳しく表すためであり、その方法を推奨したり、是非を問うものではありません。不妊治療の内容についてお知りになりたい方は、専門医にご相談ください。